これは戦後の話、三十後家は身が持たぬとかいうが、こどもを抱え、ダンナに先立たれて男手のなくなった農家のヨメは大変だったらしい、子をつれて実家に帰った所で居る場所があるではなし、歯を食いしばって婚家の田畑を守るしか道はなかった。お寺との付き合いにもお金はかかるし、現金収入の少ない農家では先祖の供養にお坊さんに来てもらってお経をあげてもらうのも包むものも包めないので滞りがちだった。
 わたしの友達のTも寺の跡継ぎで京都の仏教系の大学へ行っていた。時々帰省した時オヤジさんの代わりに檀家周りをしていた18,9のころの真夏の目が眩むくらい暑い日、くだんの三十後家のうちにお経を上げにいった。汗をかきながらお経を上げる間、後ろから後家さんが団扇で扇いでくれていたとか、、。彼女も暑かったので上は肌着一枚、胸の豊かな谷間がモロ見え、読経が終わると粗餐ですがといいながら、お昼を出してくれ、世間話などしながらくつろいでいたら、、後家さんがいうには「ぼっちゃん、おなごはまだかな?」とか言い出し、彼もまだ童貞だったのでしどろもどろした受け答えをしていたら、「亭主の供養もしてもらったし、こんどはわたしが坊ちゃんに観音様を拝んでもらいたい」とかいいだし、Tの手を引き、寝床へ連れ込んだという。彼も熟しきった後家のオッパイやお尻を見せられ、半立ちになっていたので、否応も無く後家に導かれるまま、初めて女体にふれ、何度も何度も、熟れきった蜜をあじわいつくしたとか、T曰く、「筆おろしは三十後家に限る」
当時後家は三十四、五だから、Tは年の離れた弟か、息子のようなものだったのだろう。懇切丁寧にオマンコを開帳し、おなごのカラダをどう扱ったらよいか、個人指導してくれたそうな。その指導はTがヨメをもらうまで続いたといっていた。